花見小屋

元小児がん患者で大学生になるまで生き長らえたおチビが思った事を書きつけるだけのブログです。ジェンダー問題からエンタメから、果ては自作小説まで、気が向くままに書き散らします所存です。特別の訓練を受けた訳ではありませんし、何かに詳しいわけでもありません。完全個人的な意見と思って頂けたら幸いです。

「有害なフェミニストらしさ」について

初めましての方も、Twitterで見かけたことあるよーって方もいられるでしょうが、コチラのブログではお初です。春花とおくと申します。今年から大学生になりました。まあ僕の人となり信条については後々記しておくつもりですが、それは置いておきます。


さて、鬼滅の刃空前絶後のブームとなっていますね。僕も漫画好きとして、読みました。映画はまだ観に行けていません。観ようかなーって思いつつ、お金がない…と先延ばしにしつつ、はや1ヶ月。STANDBYMEドラえもん2が公開されました。1は観たことがありますが、2が作られていたなんて知らなかったです。へえ、そうなんだー。そんな感じでTwitterを見ていたら、仰天。


(軽く)炎上しているだって??!!


詳しくみた所、正確にはSTANDBYMEドラえもん2の新聞広告が燃えているそうな。

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発端がどちらの方のツイートかは存じませんが(コレかなーってのはあるんですけど、確定じゃないので…)、要は


①しずかちゃんの名前が「野比しずか」になっている

のび太の劣等感の吐露(と対称的なしずかちゃんの励まし)

③原作改変(?)


あたりが発火要因らしいですね。(ざっくり)


そんな中で、Twitterアンチフェミニスト/フェミニスト界隈に属する僕が(フォローはさせて頂いていないのですが)よく見る方が例の広告を批判というか、正確には一言物申していました。(これって勝手に紹介していいんですかね?)

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https://twitter.com/mihoimiofficial/status/1330522994565926914?s=21

https://twitter.com/mihoimiofficial/status/1330525930016579584?s=21


僕はこのツイートを見て、しばらく考えた後思いました。


これは「有害なフェミニストらしさ」に囚われていやしないだろうか?


(勿論藤井氏が有害なフェミニストとは言いません。そもそも彼女がフェミニストと称しているかも知りません思想傾向の話です)


>有害な男らしさに囚われてて、自己肯定感の低さに

それはその通りです。のび太はそんな事思う必要はありません。気持ちは痛い程わかる。僕もどチビだし間抜けだしカッコよくないし、彼女が出来ても多分「なんで俺が…?」ってなる。でもね、男が女を守らなくたっていいし、幸せにしなくてもいい。幸せはお互いで協力してなるんだよ。


ホント、それに対してのび太の素晴らしい点を説いて、そのままののび太を愛するしずかちゃんの、聖母と見紛うばかりの優しさ、愛よ!


ふと思います。これは、男らしさに囚われる男性に対し「男らしくなくてもいい」と解放を呼びかけるフェミニストのようでは無いだろうか。


>セラピー中かよ

…!?Σ(・ω・;


>さらけ出せる場所でやるべき

( ↂ⃙⃙⃚⃛ ωↂ⃙⃙⃚⃛)


彼女は男らしさに囚われる必要はないと、考えてはいるでしょう。しかし、男らしさから「降りた(男らしくなれなかった)」故の苦しみ=劣等感はセラピー中などの場でないと吐き出してはいけないし、然るべき所でそうすべき、と。


男らしくある必要はない、しかし出来るなら表では男らしくあれ。見えない所で苦しみは吐き出せ。。。(極論でしょうか?)男らしさ2.0みが感じられてしようがありません。


ここで、思い当たります。


有害なフェミニストらしさ

Ⅰ.有害な男らしさは要らないが有益に男らしくあれという言わば男らしさ2.0み


男らしさからの解放を促すのであれば、有害なものと同時に有益なそれを男性が自ずから解放されることを否定してはなりません。有益なものだけを残すことが出来れば、それはとても良い事です。しかしあくまで有益であり続けよするのは、新たな強迫観念になり、つまり男らしさが形を変えただけであります。それはあまりに好都合が過ぎます。男性にとって都合のいい所を「女性らしさ」などと呼び、女性にそれを強いる前時代的家父長制的、ミソジニックな男と何ら変わりません。


「男らしさ」からの解放促進はフェミニズムのひとつの手法です。男性が男らしさから解放されることで、それに付随する女性にとっても有害なステレオタイプを打破出来る。それに、男らしさを解放するなら女らしさからの解放を!と、更なる発展も見込める。男性側へのアプローチのために、男性支持を得やすい。その方法としてのフェミニズム的「男らしさからの解放」を僕は評価します。有益だと思います。それを普遍させるのは「有益なフェミニストらしさ」です。(どの口が…偉そうにと批判されそうですが)


しかし、そう簡単にことは進みません。有益な男らしさの裏に有害な男らしさがあるように、有害なフェミニストらしさというものも確かに存在します。(ひとつ注意してもらいたいのは、だからといって男が、フェミニストが、悪いのだと言うことではないことです。誰しもいい面悪い面あるというただそれだけの事です。自ら孕みうるいい面を、或いは悪い面を、自覚することでより良いステージへ進めるものと僕は思います)


ただ、あくまで藤井氏の主張はかの広告の「商法」であろうことを述べておきます。「有害なフェミニストらしさ」について考えるきっかけになったという点で、また少しばかり持論展開のやり方に棘があるのではという個人的感想から紹介させて頂きました。例えばですね、家事育児が辛いのは分かるけど、吐き出す場所ってものがあるでしょ。なんて話の後に何か別の事を批判したとして、それが主題と異なっていてもその「女の家事は〜」の発言に関する批判を無視は出来ないし、「読解力のない奴らめ」なんて以ての外です。


あと、男らしさ2.0についてわかりやすい事例、それに関する記事を拝見しましたので、ご紹介します。https://t.co/mEoDqoFJPk




ついでなので、STANDBYMEドラえもん2批判への批判を行います。


まず、一番見られた批判です。


それは、①、つまりしずかちゃん(女性)が結婚に際してのび太(男性)の姓を名乗らされている、夫婦同姓の風潮の押し付けであるという批判。


これに関しては、批判者の方々、皆さん夫婦別姓を強制したい方々なのかなあと思います。最近特に話題になっているのも関係するのでしょうが、それも「選択的」夫婦別姓ですよね。別が良けりゃそうすれば良い、同じ姓を名乗りたきゃ名乗ればいい、そういう制度への賛否です。断っておきますが、僕は選択的夫婦別姓には賛成です。でも僕が結婚した時には同じ姓を名乗りたいし、僕が姓を変えるのも厭いません。その思想を他者に押し付けるつもりは毛頭ないですが。逆とは言え、①のような主張をされる方は、思想を他者に押し付けたい方なのでしょう。それは多様性を重視しマイノリティを保護する一方で、多様性を構成するひとつたるマジョリティを排斥するような、多様性の矛盾に陥っているようではありませんか。


ここで、二つ目見つけました。


Ⅱ.思想(特にマイノリティとされ本来認められるべきではあるもの)の押し付け


名誉男性」という言葉をご存知ですか?それは男性側に与する女性を揶揄して、「お前は女ではない」と分断する言葉です。正確な意味はどうであれ、このような意味で使われることの方がよく見ます。そして、僕がこの界隈に来て以来最も嫌いな言葉です。それは、「これが女」という女性以外を女と見なさない、ステレオタイプな女を否定するあまり自ら新たなステレオタイプに陥っているという矛盾。そして、(その者にとって)愚かな女性は女ではない(=男)、つまり男は愚かなものであり、そんな男に迎合する愚かな女性は女ではなく男であるはずだ、女は賢いのだからという、男への責任転嫁の姿勢。これは男女の分断をこれでもかと深める。男と女は勿論、女と女の溝をも深める。あまりに有害。


宗教然り、国家然り、思想の押しつけがどれ程の災禍を引き起こしてきたことか!現代、女性がステレオタイプという、ジェンダーロールという、思想の押しつけにどれ程苦しみ、抗ってきたことか!それを担ってきたのがフェミニストです。仮に行き過ぎて同じ事を繰り返すのであれば、それは「有害なフェミニストらしさ」と言わざるを得ません。


話を広告批判批判へ戻します。


そもそも、「STANDBYMEドラえもん2」はフィクションに過ぎません。この世には野比のび太野比しずかもいないのです。そんなフィクションのひとつで、夫婦同姓表現があったとして、明確にそう記されてもないのにどうして「押しつけ」になりましょうか。例えば、「鬼滅の刃」では炭治郎は凄くいい子で、作中の正義です。でも「長男だから頑張れた」との有名フレーズがあるように、少しばかり家父長制のかほりがしますね。じゃあ、炭治郎は正義だから「長男だから頑張れた」の思想(家父長制)も正義だ!っていう思想を「鬼滅の刃」は押し付けているんでしょうか?少なくとも殆どの読者はそうは思いません。ドラえもんになるとどうしてそうなるのでしょうか。


「フィクションに何言ってんだ」という意見は最もですし僕もそう思いますが、これは非論理的ですので一旦置いときます。


では、次。② のび太の劣等感の吐露(と対称的なしずかちゃんの励まし)。これは、しずかちゃん(女性)に結婚前からのび太(男性)のケアを求めるのか!という批判が噴出していましたね。


まず、早とちりでは無いかと僕は言いたいですね。のび太は確かに弱音を吐いて卑屈になっていますが、ケアを求めてはいません。なんなら、ケアさせることを恐れて結婚を断ろうとすらしています。それに対ししずかちゃんはそのままののび太を好きだといい、ある意味自ら進んでケアしようとしています。これを「ケアの押しつけ」と見るには、しずかちゃんの好意を否定しなくてはなりません。ひいては彼女の主体性です。少なからぬ人は男性→のび太、女性→しずかちゃんと性をキャラに仮託しているでしょうから、この点の批判は女性の主体性を否定して初めて成り立つ訳です。どこかで見た話ですね。


(もしかしたら男は強くあるべきと考えていて、それに反するのび太を嫌悪する人もいらっしゃるかもしれませんね)


もうひとつ、フィクションに関して。先程述べたようにこのSTANDBYMEドラえもん2はフィクションですが、野比のび太なる人物や野比しずかは現実にいない訳ですが、仮にのび太がしずかちゃんにケアを求めているという主張に正当性があったとして、それが何かの害をうむのでしょうか?被害者はどこにいるのでしょうか?


Ⅲ.表現などへの過剰な反応


のび太がしずかちゃんにケアを求めたとて、二次元に閉じ込められたお姫様、しずかちゃんは苦しみません。きっと聖母のような包容力でのび太を励まし、時に叱り、良い夫婦として二次元の中で生きてゆくのでしょう。のび太が何をしようと被害者はいません。例の広告は批判もありましたが、それより多くの賛同ツイート(感動したなど)が見られました。僕にはドラえもん好きの友人がいますが、彼女に見せれば賛同の声と同じ事を言うでしょう。世間的には、この広告は是とされるものなのです。世間的なものが正しいとは言いませんが、絶対的な被害者のいないこの広告に関しては、少なくとも間違ってはいないといえます。極端に言えば、この種の批判をする人は、女が男をケアするという断片的な表現に対して、それが「押しつけに違いない」と「過剰な反応」をしているのだと思います。


そしてこの「過剰反応」こそが僕の挙げる第三の「有害なフェミニストらしさ」です。


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茜さや氏の写真が起用された広告に一部の方々が食いついて、炎上したのは記憶に新しいことです。僕も当時あの場にいました。胸の強調云々…本当に?確かに彼女の身体は多くの男性(女性)にとって魅力的です。でも私服で、しかも「電話をとる」というありふれた仕草。どこが「強調」されているのでしょう。あまりに過剰な反応で無いだろうか。


この騒動の酷い所は、批判だけならまあともかく、これが茜さや氏本人に飛び火して、あろう事か彼女への非難が始まってしまったこと。胸を小さくする手術の話が出た時には、目を疑いましたよ、ホント。被害者が誰もいないはずの表現に過剰反応する者がいたおかげで、茜さや氏という被害者がここに生まれてしまったわけです。


不適切な性的表現に物申すことがフェミニストの目下の活動のひとつであることは疑いようもありません。その是非は、ケースバイケースとしか言いようがないのですが、茜さや氏の件における批判が「非」であることは間違いないでしょう。彼女はこのようなツイートを残しています。


f:id:HarukaTowoku:20201125152422p:plainhttps://twitter.com/sayahana1/status/1222383766217220096?s=21 (とてもいい事書いてるなあと、僕の考えと同じだなあと、思いましたのでご紹介します)


被害者はいないと僕は言いましたが、批判者自身は気分が害されているからこそ批判するわけで、それは被害を受けていることにほかならないと、批判者こそが被害者だと、もしかすると言い返されるかもしれません。しかし、あまり言いたくはありませんがここで大切なのは客観性です。


例えば僕はがん患者ですので、がんをネタにしたお涙頂戴なお話は好きではありません。しかし僕は圧倒的マイノリティですので、目にすることがあっても、テレビを消すか気にしないだけです。それで僕の被害は無きに等しくなりますから。その、ほんの許容が出来ないのが過剰反応です。僕は嫌いでも、お涙頂戴ながんストーリーが大好きな人はいるかもしれません。僕が批判することでその人が傷つくかもしれません。そうでなくとも無駄な諍いを起こします。それは、僕の「過剰反応」で新たな被害者を作ることに他ならないのです。


マイノリティの被害は我慢しろというのではありません。被害がないか、客観的に見てかなり軽微である以上、それが過剰な反応ではないかと立ち止まることは必要ではないかと、マイノリティの一員として思います。僕は主観を否定しません。客観性とは要は主観の塊のようなものだと考えるからです。しかし、主観を社会の俎上に載せて、その是非を決めんとする時、主観的/客観的 論理的/非論理的 科学的/非科学的 etc バトルになります。何かを批判するにあたり、それは避けられないのです。


他にも様々な「過剰反応」が見られます。僕が印象に残っているのは、「嫉妬」などの漢字に女偏が使われていることへの批判ですね。とにかく、さしたる害のないものに過剰に口を出し、諍いを生むことはまさに百害あって一利なし。「またフェミか…」という感想が、最近至る所で観測されます。安易に「フェミ」とするのもまた問題ですが、間違いなくフェミニストの印象悪化に「過剰反応」は貢献しているのです。


フェミニズムの活動が社会運動であることは論を持ちませんが、そうである以上フェミニズムは社会を、それを担うより多くの民衆を、味方につけなければその本懐は成せません。悪印象この上ないフェミニストにそれが出来るでしょうか?女性の権利を守ろうとするあまりに女性権利向上を遠のかせる、過剰反応を僕は「有害なフェミニストらしさ」であると考えます。


③原作改変


漫画好きとして恥ずかしい事なのですが、実は僕、原作ドラえもんを読破したことがありません。アニメで育ちました。映画も沢山見ました。ですので、この点に関しては何とも言えません。今度、例の広告を先程の友人に見せてみようかと思います。


長くなりましたが、まとめます。


「有害なフェミニストらしさ」

Ⅰ.有害な男らしさは要らないが有益に男らしくあれという言わば男らしさ2.0み

Ⅱ.思想(特にマイノリティとされ本来認められるべきではあるもの)の押し付け

Ⅲ.表現などへの過剰な反応


と、おそらく探せば他にもあるでしょう。今回の騒動で僕が思い当たったのは以上の三点です。これらは、勿論フェミニストに限らない「有害さ」です。僕はフェミニズム的活動に際してこのような「有害さ」が発露していることを「有害なフェミニストらしさ」と定義します。


ところで、僕自身書きながら気付いたのですが、これら全てにフェミニズムとしての矛盾が関わるのですね。「有害なフェミニストらしさ」とはフェミニストの矛盾であり、その意味では「有害なフェミニストらしさ」は、「フェミニスト」ではない故のものなのかも知れません。とすると僕の主張に矛盾が生じますね。。


何度も申し上げますが、僕はフェミニストに対して否定的ではありません。勿論、一部のフェミニストに対しては非常な嫌悪と怒りを覚えてはいますが、全てのフェミニストに対してそうという訳ではありません。僕はこれまでにフェミと呼ばれたこともアンチフェミとされたこともあります。僕は両方でありたいと思っています。フェミが間違っていたらアンチに、アンチが間違っていたらフェミに、そしてフェミだろうがアンチだろうが正しい(と思う)ものは正しい、間違ってることは間違っていると、主張します。今回はフェミニストの中でも悪い所が顕れていると考えたために、このように長たらしく書いています。また、全てのフェミニストの中にこれら「有害さ」があると述べるものではありません。


この記事は僕にとって初めてのブログとなります。長々と己の主張を書くのは、大学の期末レポート以来です。お粗末な文でしょうが、お許し下さい。論理的な穴もかなりあるでしょう。それらの指摘、反論、異論、ドンとこいというか、して頂ければありがたく思います。


これは僕の持論というか信条なのですが、僕は自分の考えを絶対正しいと思っています。そう思ってないと、主張なんて、少なくとも僕に関しては出来ないと思っています。僕は正しいです。でも、「正しさ」というものは千差万別、変わるのものです。僕は自分の正しさを変えることに柔軟でありたいと思っています。勿論、それは僕が納得して変えるものではあるのですが。賛同に限らず、様々な意見をぶつけて貰えたらと思います。それでより客観的な「正しさ」に近づくことが出来ればと、僕は願います。


ありがとうございました。